コツリ、コツリ。


しんとした静けさの朝靄の中、窓を叩く小さな物音が響く。
部屋の中には、白いベッドに横たわる一人の女性。
その胸は規則正しく上下していたが、彼女の瞼は固く閉ざされたままだ。

白い、透き通るような肌に、艶やかな長い黒髪。
瞳の色はと言うと推し量る術はないが、その顔立ちは整っており、
目を開ければ彼女の纏う雰囲気に相応しい、眼差しを持っているに違いなかった。


コツリ、コツリ。


再び、窓を叩く物音が響く。
すると、今まで沈黙をまもっていた彼女の右手が、ぴくりと確かに動いた。
けれどもやはりその瞼は固く閉ざされたままで。

次いでコトリという音と共に、窓が開く。
ぱたぱたと軽い羽音が響き、ふわりと柔らかな風が女性の頬をくすぐった。


「ん・・・・・・。
 ―――ここ、は・・・・・・?」


それと共に小さな呻き声が漏れた。
ゆっくりと重い瞼が開いていき、瞳の色が露になる。
夜空の月より澄んだ金の瞳。

何かを確かめるかのように殊更ゆっくりと身を起こし、黒髪の女性はその瞳できょろきょろと周囲を見渡した。
あるのは必要最低限の家具と、きぃと風に揺られて動く窓、そしてその窓枠に寄りかかるようにして佇む白い梟。


「梟・・・・・・?」
「!、君、ようやく目覚めたのかね」


小さく、呟いた瞬間、奥にあった扉がばたりと開き、一人の男性が近寄ってくる。
こちらをじいっと見つめていた白い梟は、扉が開いた瞬間、ばさりという羽音を立てて窓から飛び立っていってしまった。


「・・・・・・君の着る服を」
・・・・・・?それが私の名前・・・・・・?」


白銀の豪奢な鎧に身を包んだ白い髪の男性は、傍に従っていた青い髪の女性に短く指示を飛ばす。

先程から男が呼ぶ名前--という名前は確かに黒髪の彼女の名前だった。
しかしは何も覚えていなかった。
自分自身に纏わる記憶が、すっぽりと抜け落ちていたのだ。

は男が替えの服を命じたように、病人が着るような白い洗いざらしの服を着ていて、
季節はまだ初夏なのだろうか、開けっ放しの窓から入り込む風に、少しの寒気を感じた。
けれど、それよりも自分が何も覚えていないという事実に、身体が震えるのを抑え切れなかった。


「・・・・・・まさかとは思うが・・・・・・。
 君、君、何も覚えてないのかね?」
「私は・・・・・・」


わからないことだらけだった。
今、親しげに自分の名を呼ぶ男の名前でさえも口をついて出ることはなかった。
口ごもり、俯くに落胆の溜息が掛かる。


「・・・・・・私はアレクセイ・ディノイア。
 帝国騎士団長を務めている」
「騎士、団長・・・・・・?」
「そして君の名は・メイ・・・・・・
 いや・・・・・・。君の名は・クロフォードだ」
・クロフォード・・・・・・」


男は騎士団長、アレクセイその人で。
アレクセイは落胆した様子はあれど事実を淡々と述べていく。
しかし、の名前を口にする瞬間、一瞬だけ唇に笑みが宿った。
はそれに気づかなかった。
唯、自分の名を反芻するかのように呟くと、
先程アレクセイの命を受け部屋を出て行った青い髪の女性が、
の服を手に持ち戻ってきた。
アレクセイがそれを指し示す。


「それに着替えたら下に下りてきたまえ。
 これからの君の待遇について話すことがある」
「恐れながら閣下。彼女はまだ歩けないかと」


女性の言うことはもっともだった。
アレクセイに言われ立ち上がるが、はくらりと立ち眩みを覚え頭を抱え、
その足元はおぼつかず、すとんと膝からベッドに逆戻りしてしまった。


「・・・・・・3日。3日時間をやる。
 それまでにその腑抜けた足腰をなんとかしてくるんだな」


のその様子が気分を害したのか、
眉根を顰め告げたアレクセイの声音は、先程までの穏やかなものとうってかわって冷ややかなものであった。
どうして体が言うことを聞かないのか、自分でもさっぱり見当がつかないは、
そのままこちらに背を向けて去っていくアレクセイをじっと見つめることしか出来なかった。


「これを・・・・・・」
「ありがとう、ございます・・・・・・」


完全にアレクセイの姿が扉の向こうへと消えた後、青髪の女性がすっとの服を差し出した。
その服を胸に押し抱き、は女性へと顔を向ける。


「あの、あなたの名前は?」
「私はクローム、帝国の特別諮問官を務めています」
「クローム、さん・・・・・・。
 ―――あの、聞いてもいいですか?」
「私に答えられる範囲でなら」


女性の名前はクローム、帝国の諮問官。
騎士団長しかり、その肩書きには覚えがあった。
どうやら記憶がないのは自分に関するものだけで、基礎的な知識は持ち合わせているようだ。
そのことに安堵しつつも、はクロームに問う。


「私は、どうしてここに?
 ここは一体どこなんですか?」


――それにこの服は・・・・・・。

押し抱いた服をは広げてみせる。
渡された服はあつらえた様ににピッタリであった。
彼女の黒髪とお揃いのしっとりした質感の黒の上下に、華美にならない程度にあしらわれた刺繍とレース。
左胸の部分には深いエメラルドグリーンのブローチが飾られていた。

最後に抱いた疑問は聞いてはいけないような気がして、あえて口には出さなかった。
するとクロームはを見つめ、口を開く。


「―――ここは城の外れにある騎士団長の部屋の一つです。
 あなたは傷を負って倒れていた所を彼の方に助けられ、
 ここに運ばれました」
「お城・・・・・・あの人が・・・・・・」


クロームの話によると、が魔物に襲われ倒れていた所を、アレクセイが助けてくれたらしい。
しかし思ったよりも傷が酷く、目の覚めない彼女を心配して、ここに運んだ。
傷が癒えるまでになんと半年もかかったのこと。
その間もはずっと寝たきりで、もはや諦めかけていたとクロームは言う。

与えられた情報を頭の中で整理しつつも、は目を伏せる。
どうして半ば廃人状態だった自分をそこまで面倒見てくれていたのか。
アレクセイと自分はそこまでするほどの関係であったのだろうか。
立ち去る間際のアレクセイの冷ややかな目が、の脳裏に浮かび、消える。
肝心なことをクロームは教えてはくれなかった。
全てはアレクセイの采配によるもので。
彼女の口からは詳しくは言えないのだという。

考え込むにじっと熱い視線が注がれていた。
その視線の主はクロームでしかありえない。
それに気付いたは顔をあげる。


「えっと、・・・・・・なにか・・・・・・?」


クロームの視線は、何か憐れみのようなものを宿していて。
は訝しげに首を傾げた。
しかし、クロームは開いていた窓をぱたりと閉めた後、小さく首を振り踵を返す。


「いえ・・・・・・。
 後で何か食べるものを持ってきます。
 それまで休んでいてください」
「ありがとうございます・・・・・・」
 

かけられた言葉は労わりの言葉で。
彼女の言うとおり、空腹もさることながら、の身体は未だ睡眠を必要としていた。
は頷き返した後、クロームが立ち去るのを待たずに枕にその顔を埋めた。
その枕元には白い羽根が一つ、ひっそりと残されていた。